日課:エゼキエル書37:1-1437:1、ヨハネによる福音書11:1-45

*主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。*

──エゼキエル書37:11-14

今日の福音書の箇所に語られているのは、病気で死んだラザロという人が、キリストによって蘇らされるという出来事です。
死者が復活する。それだけでも驚くべきことですが、なぜキリストはラザロを生き返らせたのか、ということを今日は考えたいのです。

キリストによって起こされた死者ラザロは、その後どうなったのかということを想像すると、おそらく彼はまた死んだのです。
もし、文字通りの永遠の命を与えられたのであれば、彼が今日もここに生きていなければおかしいはずだからです。
つまり、死者ラザロがキリストから与えられたのは、あくまでこの世の、いずれ再び死に至るいのちであった、ということです。
そうであるなら、ここでラザロを生き返らせるという奇跡には、一体どのような意味があったのでしょうか。

単に、神様には死者の復活させる力があるんですよ、ということを伝えたいだけだったのだとしたら、死んだらその都度イエスに生き返らせてもらえばいいということになってしまいます。
イエス・キリストが語られた永遠の命というものが、決してそのようなものではないことを、私たちは聖書を読んで知っているはずです。
では、私たちはこのイエスがされた復活の奇跡と、イエスが語られた永遠のいのちの福音の間にあるズレを、どのように理解すればよいのでしょうか。
これを読み解くヒントは、旧約聖書にこそあるのです。

今日の第一日課に登場するエゼキエルという預言者は、バビロンという大国にイスラエル王国が侵略支配をされてしまうという出来事──バビロン捕囚の時代に生き、神の言葉を人々に語った預言者です。

バビロンという大国は、ユダヤ人たちが最も嫌がることをよく理解していた人々であったと思います。
ユダヤ人たちはユダヤという土地に生まれたからユダヤ人なのではありません。聖書の神様を信じる民であるというアイデンティティに基づいた、信仰によってなる民です。
聖書の神様を信じるユダヤ人同士で共同体を作り、結婚するときにも相手が同じ信仰を持つユダヤ人である必要がありました。
だからこそ、バビロンはその信仰を捨てさせることによって、人間自体は殺さず、ユダヤ人だけを滅亡させようとする政策をしました。それが、バビロン捕囚という政策なのです。
まずイスラエル王国から、男性たちだけをバビロンに移住させます。すると、イスラエル王国に残されるのは女性と子どもたちです。
当時のユダヤ教では、女性と子どもは、夫あるいは父親の所有物として数えられている存在でしたから、自分で働いてお金を稼いで生活する、ということができない社会構造でした。当然、男性を奪われたユダヤの女性と子どもは、生きていくことがままならなくなります。
そこでバビロンは、バビロンの男性をイスラエル王国に住まわせるのです。そしてきっと、このように尋ねたのだと思います。
「このままではあなたがたは飢えて死んでしまうかもしれません。しかし、バビロンの兵士と結婚すれば、あなたたちは生き延びることができます。このまま信仰を守って死にますか? それとも、あなたがたが異邦人と呼ぶ、私たちバビロン人と結婚して、生き延びることを選びますか? ただ、その場合、あなたたちはユダヤ人ではいられなくなりますけれど、どちらを選びますか?」

きっと信仰を保って、死後の救いだけを希望にして死んでいった人々も少なくなかったでしょう。
一方で、自分や子どもをなんとかして生かすために、信仰を捨ててバビロン人と交わり、後にサマリア人と呼ばれるようになった人々もいました。
残酷な二択であったと思います。どちらにせよ、ここでユダヤ人の女性たちは死を選ばざるを得ないような二択におかれたのです。
このような現実の中でユダヤ人たちが目の当たりにした死というものは、生物学的な死だけではなかったということです。ユダヤ人という信仰に紐付いたアイデンティティ、自分自身を捨てなければならないという、魂の死を迫られているものであるのです。

エゼキエルという預言者は、そのような中で神様の言葉を聞いた人でした。エゼキエルは神様によって連れ出され、「骨でいっぱい」の「ある谷の真ん中に降ろされた」と今日の第一日課は語り始められています。
ここで枯れ果てた骨とは何を指しているのでしょうか。それはまさに、当時のユダヤ人が直面した二つの死の現実であったのだと思います。
ユダヤ人として信仰を保って死んだ人々、生き延びたけれどもユダヤ人ではなくなってしまった人々。弔われることなく打ち捨てられ、同胞から悼むことさえ赦されず、枯れ果てるまで忘れ去られざるを得なかった、ふたつの死の象徴。その骨を見つめるエゼキエルの心には、どれだけの深い悲しみと無念が迫ってきたことでしょうか。

肉体も、魂も、自分という存在のすべてを徹底的に滅ぼしつくそうとする悪意にさらされる中で、それでも神様を信じるということが、いったいどのような救いになるのか、いや、救いなんてどこにもないのではないかと思えるような、そのような時代であったに違いないのです。
そのような現実の中で、神様はエゼキエルを通して、希望を語ってくださったのです。
「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」
生物学的な地上の命が失われて、魂の尊厳までも奪われつくされてなお、神様は「我が民よ」「お前たちは生きる。」と声をかけてくださったのです。

「我が民」という呼び方と、そして「連れて行く」という表現は、旧約聖書の中で繰り返し語られ、特に出エジプト記から語られ始めた言葉でもあります。神様はモーセに十戒を授ける際に、このように言われます。
「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。(出エジ19:5)」
私たちは、宝物をどのように扱うでしょうか。傷つけないように大切に守り、毎日愛でるように見つめ、宝物のことをずっと心に留めることでしょう。
神様はそのような眼差しをもって、今や命も魂も殺され尽くし、枯れた骨のように打ち捨てられた信仰者たちを「我が民」として見ておられるのです。
そしてそのような人々を、徹底的な死の絶望の谷の底から、再び「連れて行く」と力強く宣言されるのです。出エジプト記に語られたその希望が、エゼキエルの預言によって、繰り返し示されていくことになっているのが今日の第一日課なのです。

このような旧約聖書の物語を下敷きにして、イエス・キリストは実際に死んだラザロを生き返らせていったのです。
つまり、キリストがラザロを生き返らせることによって示そうとされたのは、単に生物学的な私たちの命を、神様が取り戻してくださるということだけではないのです。
私たちが生きるために必要なもののすべて──自分という存在の尊厳、アイデンティティ、信じているもの、人との関わり──そのすべてを含めて、私たちの命のすべてを神様が取り戻してくださる、ということなのです。
そしてこのような死、生物学的な死だけではない、生きながら魂が殺されていくということは、現代の私たちの現実の中にも起こりうることであるのです。

かつてバビロンという大国がユダヤ人を滅ぼしつくそうとしたように、相手の心を踏みにじり、信じているものを否定し、さもなくば命を奪う道へと追いやろうとする悪意は、今日の世界でも形を変えて、様々なところで見られることではないでしょうか。
差別や無関心、自分さえ良ければいいと思う利己心と、自分の思い通りに周りが動いてほしいと願う傲慢。そして私たち自身も不安を抱え、余裕がなくなることがあるのです。

私たち自身が周りから傷つけられ、心を押し殺さなければならない現実に追いやられることがあるかもしれない。
そして私たちが本当に大事にしなければならない、誰かに対する愛、慈しみ、配慮、そして喜びを分かち合う心もまた、枯れた骨のように打ち捨てられてはいないかと、この四旬節の季節に、改めて振り返りたいのです。

そして、だからこそ神様は、そのような私たちの心の中にある「谷」に、自分の力ではどうしようもできない死の力、罪の力に殺され尽くした私たちの罪のただ中に、降りてきてくださったのです。そして今日のみ言葉を呼びかけておられるのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

旧約聖書において、バビロン捕囚が起こったのは、当時のイスラエルの人々が繰り返し神様に背いては悔い改めず、預言者さえも退けて殺すような人々であったからでした。
しかしそのような罪深いイスラエルの人々への裁きとしてバビロン捕囚を起こされた神様は、それでも人々を見捨ててはいませんでした。
「我が民」よと呼びかけ、体も魂も新しく創り上げ、「生きよ」と立たせてくださったのです。それこそが、イエスが人々に約束をされた救い、新しい体に作り変えられ、永遠のいのちに生きるということの内実であるのです。
キリストを信じる私たちに神様がくださる新しいいのちとは、私たちの死後に与えられる、死したからだの復活、ということだけにとどまらないのです。
今、私たちは「生きよ」と呼びかけられている。
今、私たちは神様によって、新しくされているのです。

預言者イザヤはイエスの公生涯の始まりをこのように預言しました。
「…暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。((マタイ4:16)」
罪がこの世を支配し、体も魂も滅ぼし尽くす闇の力ばかりが強化されていくこの世界の中に、イエス・キリストという神様が、私たちを救い出す光として降りてきてくださった。私たちと共に生きてくださった。
そして今日も、み言葉をもって私たちと共に生きて導いてくださろうとしている。
そのような神様のみ声に応え、私たちも隣人にとっての光として、生かされてまいりたいと思います。