マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
イエスが死んで三日目の朝、それは日曜日の朝に、婦人たちはイエスを葬った墓へと急いでいます。
ユダヤでは夕方から新しい一日が始まりますから、イエスが十字架にかかって死んだ日が一日目、その日の夕方から二日目、土曜日の安息日が始まり、日曜日の朝は三日目の朝となるのです。
イエスが死に、復活するまで三日間かかったのではなく、実質的には一日半くらいなのです。
墓に向かった婦人たちは非力な女性たちですから、墓の入り口をふさいでいた石を動かすことはできません。墓を見張り、イエスの遺体を盗み出そうとする者を立ち入らせないようにする番兵たちがそれを助けてくれるはずもありませんでした。
しかしそこで、神が通り過ぎられる時に起こるものの一つの象徴としての「地震」が起こり、メッセンジャーとしてのみ使い(天使)がイエスの復活を婦人たちに告げるのです。
イエスが復活して向かわれた「ガリラヤ」とは、イエスが公生涯を始められ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った場所です(4・17)。
全ての弟子たちは裏切り、イエスのもとから逃げ去っていました。
それは、人が持つ罪──お金で人間を売り払い、保身のために見捨てるような自分勝手な思いが、いかに人と人との関係性を崩す強大な力を持っているかを示しています。
だからこそイエスは「悔い改めよ」と全ての人に呼び掛けたあの場所ガリラヤに、罪に沈んだ全ての人々を再び呼び集めようとされるのです。
そこは「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という預言が成就する場所でした。
その暗闇と死の陰は、罪から逃れられず、生きながら死んでいる私たちのことです。そのような私たちと隣人との間に差し込み、関係性をとりなす光こそ、イエスというお方であったのです。
弟子たちはガリラヤの山で、復活されたイエスに出会います。
この山は、5章で群衆たちに向けて「山上の説教」を語った山とも言われています。
ルカ福音書ではより詳しくイエスとの再会が記された記事がありますが、マタイ福音書では復活がどのようなものか、ということについての言及はありません。
それよりも重要なのは、弟子たちをイエスが宣教へと派遣する命令を下したこと、そしてイエスが「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたことに目を向けています。
これは、イエスがガリラヤから公生涯をはじめ、弟子たちをとり、山上の説教でその教えを語り、教えを受けた弟子たちを派遣するという流れを、十字架に至る出来事を包み込む枠構造のように配置しているとも言えます。
そこでの違いは、教えを伝える対象が「イスラエルの失われた羊(まだイエスの教えを聞いたことがないユダヤ人)」から「すべての民」に拡大されている、ということです。
これはユダヤ人が旧約聖書の中で神様に選ばれ、全世界の人々の中で最初に救いに与る民だった、という文脈を否定しないためのものです。
あくまで神様はまずユダヤ人たちに救いを与えようとされていた、しかしユダヤ人たちはそれを拒み、イエスを十字架にかけて殺してしまった。それゆえ、もはや神の選民としての優先を拒んだということから、神様はユダヤ人たちに約束されていた優先を取り払い、全ての人に等しく救いをお与えになるという本来の計画に戻されたということです。また、それはイエスの「婚宴のたとえ(22章)」にも表されていたことでした。
このイエスの言葉によって、ユダヤ教の一派であったイエス・キリストとその弟子たちの集団は、キリスト教という別の宗教として分離していくことになったのです。
しかし、復活のイエスに出会い、自らの罪を悔い改めて真にイエスを信じるようになった…というわけではない人々もいたことを聖書は「しかし、疑う者もいた」という一言で表現しています。
信じたくても信じきれない、神様の思いと導きを受け取りたくても受け取れない、湖の上を歩こうとしたペトロが抱いた「疑い(14・31)」を捨てきれない人がいたということです。
悔い改めたからもう二度と間違うことはない、そんな人はいません。
繰り返し繰り返し、私たちはこの多忙な現実の中で、聖書の言葉から引きはがされることがあります。
その結果、不安に襲われ、心が迷い、信じる心を奪われ、神様を見失っていきます。
一度は聖書の言葉にあれだけ心を熱くさせられ、励まされ、あるいは平安を与えられ、余裕と慈愛に満ちた行動をしようと心を改めさせられても、それが永遠に持続することはありません。
洗礼を受け、熱心に聖書を学んだ敬虔なクリスチャンであっても同じです。
なぜならそれこそが、私たちの内にある罪というものだからです。
だからこそイエスは「あなたに命じておいたことを」守りなさい、で終わらせるのではなく、「教える」ことを勧めるのです。
誰かに教えるためには、まず自分が深く理解していなければなりません。教えることによって、十分に理解していなかったことを知らされ、より理解することへと招かれるものです。
誰かの救いのために生きること、その行動と言葉を通してイエスの教えを周りに示し、また教えることは、同時に自分自身の信仰を育み、何度でもその教えによって救われたことを思い起こす機会を与えられることでもあるのです。
イエスが母マリアのお腹に宿った時、天使はイエスのことを、預言されていた「インマヌエル(1・23)」──「神は我々と共におられる」お方だと言っています。
そしてイエスという名前は「主は救う」という意味の言葉です。
旧約聖書の伝統から言えば、名前というのはその存在そのものを表すものであり、存在が持つ力を指し示すものでもありました。
だからこそ「イエス」「インマヌエル」という名前を与えられた一人の赤ん坊こそ、私たちと永遠に共にあって救ってくださる神様であるということが福音書を締めくくる最後の一節にも語られることで、マタイ福音書全体を貫くテーマであったことが明らかにされています。
そうして改めてマタイ福音書のイエスの教えを読み返してみると、全ての教えの語尾に、「神様はあなたと共におられるからだ」というメッセージを付け加えて読むことだってできるでしょう。
そしてそれは、イエスが弟子たちを「平和」のために送り出されたように(10・12)、罪と暴力と悲しみが増え続けるこの世界の中で、私たち一人一人が「平和を実現する(つくり出す/口語訳聖書)人々(5・9)」とされていくためなのです。