マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
一緒に福音書を通読してみましょう!

通読の目次はこちらから。
自分のペースでお読みいただければ幸いです。


ちょこっと解説

当時のイスラエル王国はローマ帝国の支配下にあり、基本的にはユダヤ人の問題は最高法院が裁く管轄になっていましたが、ここで祭司長たちをはじめとした最高法院の人々は、異邦人であるローマの法で最高の刑罰である十字架刑にイエスをかけて殺そうと画策します。こうすることによって、ユダヤ人と言う信仰の民として最も屈辱的な死を与えようとしたのです。
ローマの総督であるピラトにイエスは送られます。しかしピラトは、イエスに罪を見いだせず、困惑するのです。
ここでピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と問われ、イエスが「それはあなたが言っていることです」と答えているのは(11節)、はぐらかしているのではありません。
イエスが王、つまり神様が地上に遣わしたメシアであり、天の国を人々に与える永遠の王であるのかどうかは、一人一人がイエスをそのように受け入れるかどうかにかかっています。ピラトはここで「祭司長たちがそう言っていたから」尋ねているに過ぎないことを気付かせようとしているのです。つまり、「あなた自身はわたしをどう見ている?」と暗に問いかけているのです。

自分の意見を持つことよりも、周りが言っている一見正しそうに聞こえる意見に迎合する方が楽ですし、それが間違っていたとしたら「いや、これは自分の意見ではないし」と責任を放棄することができます。
実際、ピラトが必死にイエスの無実を群衆たちに呼びかけても、その正当な理由を出さずに「十字架につけろ(23節)」と叫んでいるのは、まさにそのような態度に外なりません。
神様は常に、「あなたはどう思うか、何を信じ、何を選ぶのか」を見ておられることがイエスの姿にあらわされています。そこに、私たちの罪は浮き上がってくるのです。
そしてピラトがイエスの無実を証明することを諦め、「お前たちの問題だ(24節)」と逃げていることからも、イエスを十字架へと追いやったのはユダヤ人だけではなく、異邦人であるピラトもまたそこに関与していることが表されています。
こうして、イエスの十字架によって赦される罪は、ユダヤ人だけでなく、異邦人すべてに拡大される兆しが示されているのです。

イエスが兵士たちから暴力を振るわれ、その衣服を奪われ、侮辱されていく姿、そしてイエスが十字架上で叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉はすべて、詩編二十二編にそのまま重なります。
「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。(詩22・19)」は兵士たちの振る舞いに重なり、「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。(詩22・9)」は祭司長たちや律法学者たちの言葉に重なります。
誰もかれもが「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。(詩22・8)」ようにイエスを見ていたのです。
だからこそ、そのような中でイエスは、この詩編の冒頭を口にされました。
「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(詩22・2)」
これはイエスの神への必死の祈りであり、詩編を知るユダヤ人たちへの悔い改めへの告知でもあるのです。

この詩編は最後に、それでも神様は救ってくださるという確信と賛美によって締めくくられる詩編でもあります。「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。(詩22・25)」
ですからイエスは、最も神の救いから遠い、むごたらしく人の命の尊厳を踏みにじる現実の中にあってなお神様はその祈りを、「助けを求める叫びを聞いて」くださるお方であることを教えるための言葉であったのです。

イエスが十字架上で息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が…裂け(51節)」とありますが、これはイエスの父である神様の深い悲しみを現わしています。
当時の人々が深い悲しみや怒りを感じる時、旧約聖書では「衣を引き裂く」という表現で表されるからです。
それと同時に、神様が神殿という場所から自ら出て、イエスのように人々の間に生きるお方となった、という解釈がされる部分でもあります。
それによって、異邦人であるローマ兵がまず「本当に、この人は神の子だった」という真理に到達するのです。
ペトロが信仰告白した時にもイエスが「このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ(マタイ16・17)」と言った通り、私たちがイエスを神の子であると受け入れ、信じる時、それは私たちの努力ではなく、神様の働きが起こっているということなのです。

イエスが死んだのは、金曜日だったと言われています。土曜日はユダヤ人にとって安息日にあたるため、イエスを葬ることも、安息日の前日に済ませてしまわなければなりませんでした。
最高法院の議員の一人であり、またイエスの弟子でもあったアリマタヤのヨセフの申し出によって葬られたあと、祭司長たちの申し出により、その墓は厳重に閉じられました。
イエスが三日目に復活すると言っていたことを聞いていたからです。
徹底的にイエスを否定し、万に一つもその影響を残すことがないように、彼らは手を尽くしたのです。そこに、あれだけのイエスの呼びかけと、神殿の垂れ幕が破れ、異邦人が十字架のイエスを救い主として認めるという大きな出来事があってなお、彼らがまだ頑なであったことが示されているのです。

これほどまでの侮辱と苦痛、体と心の苦しみの極致に留まってなお、イエスは彼らに反抗したり、憎しみや呪い、その罪を断ずるようなことはなさいませんでした。
暴力でねじ伏せた暴力は、さらなる暴力を生むだけであり、それゆえに神の力をもって人の暴力をねじ伏せることはなさらない、ということの表れなのです。
だから神様は人の罪を見つめ、忍耐し、ゆるし、必死に呼び掛けることで、悔い改めを待つという「愚かな(1コリ1・23)」手段を取られました。
どれだけの痛みと犠牲を払ってでも、そうすることによってのみ、人が、罪とそこから生まれるあらゆる暴力から解放されることを、知っておられたからです。
だからこそイエスの十字架には、神による人間への罪の赦しが示されている、と捉えられることになりました。

イエスの姿と言葉を通して、徹底的な人間へのゆるしを表明することによって、誰もが持つ人の罪の所業を振り返らせ、悔い改めに導こうとされている。
そう信じることによってのみ、荒れ狂う波のようなこの現実の中でさえ揺らぐことのない平安と慈愛を、自分の中に、そして関わりあう人々との間に保ち、それを押し広げる者となっていく。
それこそが神様が天地創造の時から人に望まれた生き方であり、そこにこそ神様がおられ、神様が働かれているということが、惨たらしい絶望的な現実の中でなお起こりうることを、イエスは私たちに示してくださったのです。
そしてその神の御心は、イエスの死を最後まで見届け、その亡骸を引き受けていった婦人たちの姿に、響き合っているのです。