マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

エルサレムにあった神殿は、かつて他国からの侵略によって破壊され、捕虜として連れ去られたユダヤ人たちがパレスチナの地に戻ってきてから四十年以上かけて再建されたものでした。弟子たちはその荘厳さに目を奪われていました(マルコ13・1)が、イエスは一つの石も残らず崩壊することを預言します。
神殿は人々にとって、ただの建造物ではなく、むしろ信仰のよりどころであり、神様がそこにおられるということを目に見える形で表したもの、と捉えられていました。
ですからこのようなイエスの物言いもまた、ファリサイ派の人々にとっては神への冒涜、人々の信仰を惑わす言葉と捉えられる恐れがありました。
しかしイエスがこのように言われたのは、目に見え、手で触れられるこの世のものは何一つ永遠に残るものはないということでした。
実際、紀元七十年にはローマ軍によって破壊されることになります。しかし本当に大事なのは荘厳な神殿ではなく、どこにいても、何も持っていなくても、神様に心を向けて礼拝をすることである、とイエスは言わんとしているのです。
ヨハネ福音書ではこれを推し進め、イエスを神殿と同一視しています(ヨハネ2・19、4・23-26)。
つまり、イエスこそ神様が現臨している神殿であり、死してなお三日目に復活し、永遠に生き続ける(壊れることがない)存在となられたことから、どこででもイエスを通して礼拝することこそが真の礼拝である、と私たちに教えるのです。

私たちの信仰は、目に見えるものに左右される弱さを持っています。
お守りを考えてみるといいでしょう。本来お守りという目に見える刺繍袋を通して、神様からの「守りのパワー」を分け与えられていることを信じるものであるはずなのに、そのお守り自体が壊れたりなくしたりすると、途端にその守りのパワーまでもが失われたかのように感じてしまいます。
それは、いつの間にかお守りと言う目に見えるアイテムを、神様として拝んでいるということなのです。
神様は神殿が壊れても聖書が燃やされても傷つかず、いなくなることはありません。どんなにあなたの周りの状況が絶望的でも、手元に聖書がなくても、主の祈りと、記憶と心に刻まれた聖句があなたを助けてくれます。それすらなくても、「神様」と呼び掛けるその一言の祈りさえ、神様は聞き逃すことはありません。大事なのは、神様に心を向けることそのものだからです。

弟子たちもまた、神殿の崩壊予告におびえ、来ると言われていた世界の終わり(終末)はいつ起こるのか、何が起こるのかとイエスに尋ねています。
ここでイエスが弟子たちに教えていることもまた、目に見えるものに振り回されるなという教えが多くあります。
目に見える偽物のメシアが大勢現れること、戦争や天変地異など、人々の心を揺さぶり、心の平安が乱される時代が必ず来るのです。
しかし「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない(7節)」とイエスは断言するのです。

私たちの力が及ばない天変地異によって私たちの世界が壊滅的な被害を被った時、世界の終わりだ、天罰だと叫ぶ人が必ずいます。
しかしイエスはそれを、私たちを不安にさせるものではなく「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と、時を見分けることに重点を置きます。
嵐の中で波に悩まされていた弟子たちの船に、イエスが乗り込んだ瞬間に凪になった(14章)ように、イエスを信じる事によって、どのような時にも揺らぐことなく、惑わされることのないようにしなさい、必ず再びイエスがやってこられ、この世界を天の国にしてくださるという信仰に立って、むしろ安心していなさい、と呼び掛けてくださっているのです。
なぜなら神様ご自身である「わたしの言葉(31節)」は、天地が滅びても決して滅びることなく、揺らぐことがないからです。神様は言葉であり(ヨハネ1・1)、その言葉によって私たちは信仰を与えられ、どのような世界の中にあっても生かされていくからです。