マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

マタイ福音書はその初めから繰り返しイエスの姿と旧約聖書の箇所を引用しています。
これは、旧約聖書を理解しているユダヤ人を読者として想定しているからです。
預言とは神様から予め約束された言葉であり、イエスがその約束を成就させるために来られたお方であることを表すためにこのような記し方をしているのです。

そのイエスが、神様のもとから来られたお方としてエルサレムというユダヤ人の都に入ってくる、ということは大きな宗教的な意味を持っていました。
ローマ帝国に支配されている状況で、イスラエルの王もローマにすり寄っている中、旧約聖書に証しされた王様、正真正銘神様から遣わされた真の王様が都に来る、ということは、人々にとってはイスラエル王国の独立・再建を夢見るには十分だったに違いありません。

イエスはエルサレムに入られると、神殿に入り、大騒ぎを起こされます。
神殿では儀式に捧げるための生き物が売られ、外国から帰ってきて神殿に礼拝に来たユダヤ人たちのために、両替人たちがいました。
それは初めこそ礼拝するために必要な働きとして始められたものであったはずですが、イエスが目の当たりにしたのは、必要な働きであることを逆手に取って、祈りに来た人々から搾取する「強盗」のような状態だったのです。
それを是正しようとしたイエスは人々には賞賛されましたが、神殿にいて彼らの商売をゆるしていた祭司たち、律法学者たちにとっては苦々しく見えたことでしょう。

だからこそ彼らは「ダビデの子」とイエスが呼ばれていることについて問います。
それはつまり「メシア」であるという意味であり、イエス自身に「自分はメシアである」と言わせることで冒涜の罪で訴えようとしたのです。

しかしイエスが引用しているように、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言わせているのは神様ご自身であり、ペトロがイエスをメシアだと信仰告白したとき(マタイ16・16)と同じであると説くのです。
そう言うことによって、イエスの正しさ(11・19)を証明し、遠回しにメシアであることを示しながら気付かせようとしているのです。

ファリサイ派や祭司長たちは「最高法院サンヘドリン」に所属していました。最高法院とは当時のユダヤ社会における最高決定機関であり、いわば国会議員並みの権力と立場を有していたのです。
一方で彼らは聖書の先生であり、人々の中で信仰が最も正しい人間としての自負がありました。
本来なら神様やメシアが来たとなれば、それに従うのが彼らの理想的な姿であったはずですが、いざイエスがメシアとしてやってくると、彼らはその立場と権力を自分のものとして手放すことができず、彼らが本来従うべき「天(神様)からの権威」をイエスが持っていることを認められずにいるのです。

ましてや彼らはそのように神様に従わず、自分たちこそ神様のような立場に立ち、神様の救いでさえ自分たちだけの手中に独占しようとしています。
人々を罪に定めて裁くことで、自らの正しさを強化し、差別と格差を広げることで自分たちに都合のよい立場を保っていたのです。
このことをイエスも「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている(マタイ11・12)」と表現していたのです。

そして今や、このことを真っ向からイエスは彼らに告げていきます。
そうすることによって彼らの偽りの信仰が「打ち砕かれ(44節)」、悔い改めて自らの全てを神へ帰すようになることを求めるのです。
しかし彼らは悔い改めるどころかイエスを捕らえようとし、イエスのたとえ話のように、主人の息子を殺してしまう(39節)ことが予告されています。
自らを殺そうとするものにさえ、過ちを指摘し、悔い改めを求めるほど愛をもって見つめ、関わろうとしておられる神様の姿が、イエスの再三の呼びかけに示されているのです。