マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
私たちは目に見えるわかりやすい「しるし」を通して神様を見出そうとします。
滅多に起こらない天変地異や奇跡のような出来事を通して、これは神の罰だとか恵みだとか、勝手に判断してしまう心を持っています。
それは逆に言えば、目覚ましい出来事を通してでなければ神様の働きとは認めない、という判断基準を生み出すことにもなりかねません。
イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めた律法学者たちも、そのような頑なな考えに陥った人々でした。
ここでイエスは彼らにしるしを示さずはぐらかしているのではありません。
誰にでも見分けることができる空模様にたとえて、目の前にイエスという存在がおられることこそが「天からのしるし/時代のしるし(3節)」である、と気付かせようとしているのです。
ペトロがイエスが何者かについて「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です(16節)」と答えたことは「キリスト者の信仰告白」として捉えられています。
クリスチャンになるとき、教会では洗礼という儀式を行いますが、そこで「イエスが救い主であり、生きて働く神様ご自身である」ということを信じ、それを言葉で言い表す(告白)ことが求められます。
これは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマ10:10)」とパウロが言っている通り、ペトロの言葉は初代教会から続く信仰告白の原型となっています。
そしてそのことは、私たちの努力や理性で捉えるものではなく、神様から示されるもの(17節)と言われます。
わたしたちは神様を信じようとして信じるのではなく、信じさせられる──信仰を与えられるという考え方がキリスト教にあるのはここが根拠になっています。
また、ペトロというのは実はここでイエスに与えられた別称であり、本名はシモンです。
ペトロとは「岩(ペトロス)」を意味する言葉であり、これは山上の説教における何があっても揺らぐことのない土台(マタイ7・25)を意味する言葉であり、その上にキリスト教会を立てる、とイエスが予告をしているのです。
そしてこの弟子ペトロが、キリスト教会の初代教皇となり、「天の国の鍵」を歴代の教皇は引き継いでいる、と捉えられています。
私たちは神様を信じたからといって、突然良い人間・正しい人間に変わるわけではありません。
まさにペトロも、このような信仰告白の直後に、イエスへの無理解を露呈してしまっているからです。
イエスが十字架にかかって死ぬことは、旧約聖書に定められた罪のあがなう儀式(レビ1・1〜)における贖いの子羊とイエスとが重ねられて理解され、イエスの十字架は全人類の罪をあがなう儀式だったのだと理解されていきました。
しかしこの時点ではペトロでさえその意味を捉え切ることができず、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません(22節)」と諌めています。
自分の先生に対してこのような物言いは普通なら大変失礼にあたる大胆な物言いですが、直前でイエスにその信仰を認められたことに、イエスの一番の理解者、という自負が強められたからかもしれません。
ここでイエスがペトロを「サタン」呼ばわりしているのは、ペトロが悪魔になってしまったということではなく「反対者」という意味で使われている言葉です。
神様に認められた信仰者であったとしても、神様の考え、ご計画を理解したつもりになって、的外れに捉えてしまうことは、罪ある人間にはよくあることです。
「罪(ハマルティア)」という言葉もまた、元々は「的外れ」を意味するギリシャ語です。
宗教改革者マルティン・ルターが信仰者を「全き義人(神に赦され、正しいと認められた人)であり、同時に全き罪人である」と言っている通りです。
イエスはペトロに「引き下がれ」と命じました。これは直訳では「私の後ろに退け」という言葉が使われています。つまりイエスはペトロがいるべき立ち位置を改めて示されたのです。
私たちの罪をイエスが十字架の重みとして担がれたように、私たちも罪を赦されていることに感謝をしながら、その罪を繰り返すことがないように己の十字架として背負ってイエスの後を行くことこそ、イエスを信じる信仰者の歩みなのです。