マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
この章では再びファリサイ派の人々とイエスとの対立が深まっています。
しかしここでイエスは以前も引用した言葉「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(ホセア6・6)」を再度持ち出しています。
これはこの箇所が論破に最適な万能聖句であったからではありません。
この箇所が語られている文脈には、当時のイスラエル王国の人々が行なっていた形だけの儀式(いけにえ)、形だけの悔い改めを戒める箇所であるからです。
イエスはこの箇所が教える「神が求める憐れみ」の実践として、手の萎えた人を安息日に癒されます。
当時の律法では「安息日には仕事をしてはならない」と定められていましたから、医者が患者を治すことも仕事として解釈され、禁じられていました。
それにも関わらずイエスが手の萎えた人を癒されました。
それは律法を文字通りに形式的に守るよりも、目の前に助けを求めている人がいれば助ける、というシンプルな憐れみの行為こそが、律法の本質──神様が人々に求められた愛と憐れみにかなった生き方であるとイエスは実践し、説明されたのです。
それを教えられてなお、ファリサイ派の人々はイエスに反発し、「どのようにイエスを殺すか」を相談し始めます。
このような姿にこそ、皮肉にも彼らが神様の心に反していることを自ら表明してしまっていることが表されているのです。
また、ファリサイ派の人々はイエスの奇跡を「悪霊の頭ベルゼブルの力」によるものだという、荒唐無稽な言いがかりをつけます。
それに対してイエスは当然の論理で反論します(25-26節)。
注目すべきはイエスが「人が犯す…冒涜はどんなものでも赦される(31節)」と言っていることです。
当時としてはかなり斬新な律法解釈であったと言えます。なぜなら冒涜とは弁解の余地なく死罪に値する罪だと考えられていたからです。
だからこそイエスも最終的には冒涜の罪に問われて十字架へと追いやられていくことになりました(マタイ26・65)。
しかしイエスは、人が持つ罪がいかに深く、自分ではコントロールできないものであるかを神様がわかっておられる、ということを伝えようとしています。それは旧約聖書が繰り返し描き出してきたことでもあります。
だからこそイエスは自身が的外れな非難にさらされても全て赦す、と言われます。
これはイエス・キリストが後に十字架において示される全人類への赦しに通ずる言葉でもあるのです。
そして、後に続く「しるし」についての問答では、初め神様に逆らった預言者ヨナが三日三晩魚の腹に閉じ込められて生と死のはざまにいたように、イエスも復活まで三日を要することが、のちの「しるし」として与えられるのだという予告をするのです(40節)。
一方で、神様が唯一赦されないものとして「”霊”に対する冒涜/聖霊に逆らうこと(31-32節)」とイエスは言われます。この霊とは簡単に言えば「神様の働き」を指し、それに対して逆らったり否定をすること──「後の世(終末)」が来る時までに悔い改めないならば、赦されないと言われます。
これは、決して神様からの脅しではありません。
ファリサイ派の人々のように自分の正しさを信じるあまりに頑なになり、本来神様が願っておられる人間関係を自ら遠ざけてしまう人を、神様は救うことができないよ、ということです。
ニネベの人々(41節)のように悔い改め、南の国の女王のように異邦人であっても神の知恵(ここではイエスの言葉)を求める者に、神様はどれほどの赦しと救いの恵みを用意しておられるのかをイエスは伝えようとしています。
それゆえ、これはファリサイ派の人々の頑なさに対する厳しい忠告であり、イエスを殺そうと画策する彼らを代表とした、聖書を読む全ての人々に対しての悔い改めへの招きであるのです。