マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

洗礼者ヨハネはイエスが本当に旧約聖書に預言された救い主メシアなのかと疑い、使者を出しています。
それはおそらく、ヨハネが想像していた以上の賛否両論がイエスに対して起こっていたからでしょう。
特に、当時のユダヤ社会において社会的地位と権力を持っている人々に対して、ことごとく鋭い批判を行い、多くの人々が目もむけなかった罪人や病人たちに関わり、弟子としていたからです。
後の弟子たちもそうであったように、救い主メシアとは旧約聖書の文脈ではローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してくれる軍事的なリーダーとして受け取られる面もあったため、それに似つかないイエスの姿や弟子たちの面子が揃っていたことは、9章のファリサイ派との問答(9・11~)からも明らかでした。

ここでイエスが「つまずかない人は幸い(6節)」と言っているのは、ヨハネの不信仰だけを糾弾するものではありません。
「今の時代を何にたとえたらよいか(16節)」と続けて語られていく通り、人々はその真意をはかろうとしないで、勝手な解釈や卑下をするものです。
ましてや自分に対してすぐに役に立つようなものでないなら、あるいは関係がないと思うようなことには、精査もしない誤解を平気で公言してしまうものなのです。

しかし、イエスは正しさを保ち、的外れな解釈一つひとつにむきになって弁解するようなことはしませんでした。
なぜなら本当に正しいことは、いずれ証明されるからです(19節)。
だからこそ「耳のある者は聞きなさい。(15節)」と言われます。

当時の人々にとってイエスの登場と教えは劇的なものでした。そして、なぜそのようなことをするのかという問いかけを引き起こすものでもありました。
ほとんどすべての人々が「逆らってはならない、反論してはいけない」と思っていたであろう世の権力者・教師たちに、聖書の真意を説き明かし、人々が心の底では、これではいけない、と思っていた欺瞞を打ち砕かれました。
それはイエスの先駆者であるヨハネでさえ困惑するほどでした。

神様の働きとは、時にこのような形で私たちにも見えることがあります。不効率で、不合理で、意味がない、すぐに理解しがたいようなことの中に、神様の御心が隠されていることがあるのです。
だからこそ、私たちはただ今の瞬間だけで神様の心を見極めようとするのではなく、イエスが引き起こした問いのように、神様の問いかけを長い時間をかけて引き受けていく勇気が必要かもしれません。
確かなことは、神様は私たちを苦しめるよりも助け、迷わせるのではなく導き、見捨てるように見えても確かに愛しておられるということです。
私たちがそのように神様を信頼することによって、初めて神様が見つめておられる「正しさ」を私たちも見出すことができるようになるのです。