マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

山上の説教は5章から7章にかけて語られたイエスの説教ですが、そのテーマはちょうど枠のような構造になっています。
どのようにして生きることが神様の御心に正しく生きる事であるのかを旧約聖書の律法を再解釈することによって説く5章、そして形だけの形骸化した信仰のわざに対しての非難と忠告が後の7章で語られています。
そしてその中心に置かれているのがこの6章の「主の祈り」なのです。

あくまでキリスト者の信仰とは祈りから始まり、祈りによって支えられる、祈りこそが信仰の大黒柱であることをイエスはここで言おうとしています。
主の祈りは私たちが欲しいものを求める祈りではなく、神様が私たちにお与えになろうとしているものを私たちが求めるように勧めます。
あくまで神様に自分を委ね、神様が私たちを用いてくださるという謙虚さをいただくために、私たちの実生活が保たれること(11節)、人との関わりのうちにゆるしが満たされること(12節)、罪に陥らないようにすること(13節)を求めるようにとイエスは私たちに教えたのです。
そしてそれこそが神様にとって、御名があがめられ(9節)、御国が地にも来て、御心が行われる(10節)ことに結び付いているのです。

私たちはいつも信仰を人の目に見えるところで表したがります。
それは、誰しも心のどこかで自分が立派な人物、価値ある人物と認められたいという思いを持っているからかもしれません。
神様はその思いを捨てなさい、とは言われません。それを他者に求めてもいつまでも満たされないよ、むしろ充分に満たしてくださるのは神様にしかできないことなのだよと勧めているのです。

私たちが感じ、生きているように思う「世界」は、いつも周りの人々との関係の中に閉じられています。
周りの人々と繋がっている実感、周りの人々から認められること、賞賛され、自分の言葉が誰かに響くことを通して自分の存在が承認されると感じている人も多いでしょうし、テクノロジーの進化によってそれはより深刻になっています。

しかしイエスは「空の鳥をよく見なさい」と言われます。
きっと広い大空を、自分の周りにいる誰も目に入らない、神様だけがおられる空を見上げさせるようにイエスは語られたのではないかと思います。
「顔を上げてごらん」
「大丈夫だよ、神様がきっと私たちに必要なものは全てご存じだから」
「明日のことまで心配しないで」
そう呼び掛けてくださっている幸いに、安心して身を委ねる時間を手渡してくださっているのです──「主の祈り」と共に。