マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
この5章から7章まで続くイエスの説教は「山上の説教(垂訓)」と呼ばれています。
ルカ福音書では「山から下りて、平らな所にお立ちになった(ルカ6:17)」ことから、並行箇所が「平野の説教」と呼ばれています。この差は、マタイ福音書がユダヤ人向けに書かれており、旧約聖書の伝統では山の上という場所が神と出会い、神と語らう場所として捉えられていたからです。
特にこの説教の冒頭に置かれた幸いについての八つの言葉はカトリック教会では「真福八端」とも言われる箇所でもあります。
新共同訳聖書では「心の貧しい人は、幸いである(5:3)」と訳されていますが、原典では「幸いである」という言葉が文頭に置かれています。
日本語では文語訳がその語順に近く、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。…」と訳されています。
つまりイエスは、「心が貧しい」「柔和である」「義に餓え渇く」等を条件としてあなたは幸いだ、と言っているのではなく、まず「あなたがたは幸いだ」という宣言から始めて、一見幸いだと思えないような状況の中に置かれてなお、その宣言は神様からの祝福として揺らぐことはないんですよ、という約束を語っているのです。
だからこそ、この真福八端の締めくくりには「喜びなさい」と呼びかけられて終わっていくことになります。
5章13節からの言葉で私たちにたとえられる塩と光は、人にどのような働きを求められているかの二つの側面をたとえたものです。
塩は当時は防腐剤として使われていました。塩は食材が悪くならないよう防ぎつつ、塩そのものは見えなくなる、ということにたとえて、人にかける言葉や優しさなど、その人を内側から生かし、保つための働きを私たちに求めています。
対して「世の光」は、人の外側(つまり目に見える関わりによって)から導き、照らす働きとしての関わりを表すものです。
しかしどちらの働きにおいても、私たちの名誉のためにする関わりではありません。あくまでそれを通して神様の思い、愛とその心を示すためのものとして為されるべきだと呼び掛けられます。そしてその模範として生きられた方こそ、イエス・キリストというお方でした。
5章17節以降は「あなたがたも聞いている通り…」と繰り返されています。
これは当時の律法とそれに基づいた慣習について触れているものです。
一見それらをより厳しく定め直しているように見えますが、日々の「マニュアル」として聖書の律法(ルール)を守るのではなく、そのルールに込められた神のみ心を問い、そこに立ち返るようにするためだったのです。